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1: 2018/04/19(木) 22:39:22.63 ID:CAP_USER9
「分からなかったら、なんでも聞いてくれ。ファルカンはくどいほど繰り返していました」――アデマール・マリーニョ

 外国人監督がコミュニケーション不足を理由に解任されたのは、今回のバヒド・ハリルホジッチが初めてではない。1994年、「ドーハの悲劇」( >>93年アメリカW杯アジア最終予選、イラクとの最終戦で土壇場で2-2に追いつかれ出場権を逃す)の後で日本代表監督を引き継いだファルカンが解任された際にも、同じ理由が添えられた。

「日本サッカーの父」と尊敬されたデットマール・クラマーでさえも、時には言葉が強過ぎることがあり、コーチ兼通訳の岡野俊一郎が和らげることで理解、融和を深めていった。フィリップ・トルシエの高圧的な姿勢も、今ならパワハラと非難されたかもしれない。

 ファルカン時代も、確かに一部の選手たちは隔靴掻痒(かっかそうよう)の感が拭えなかった。特に「最も数多く質問をした」と語る遠藤雅大などは、サイドバックに転向したばかりだったこともあり、他のポジションの選手たちとの連携面での確認を詰めたかったが、明解な答えを引き出すことはできなかった。

 だがファルカンが、選手たちとのコミュニケーションを拒んだ形跡はない。当初代表チームには、通訳が一人しかいなかった。これでは無理が生じたので、94年秋のアジア大会を前にブラジル時代から旧知で、JSL(日本サッカーリーグ)でも活躍したアデマール・マリーニョが、二人目の通訳として着任した。

サッカー_02

4/19(木) 16:01配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180419-00022089-theanswer-socc
長期スパンでの強化目指すも…協会とのコミュニケーションが取れていなかった?

 ファルカンは、1980年代にジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともにブラジルの「黄金のカルテット」を形成し、当時世界最高水準を誇ったセリエAでは「ローマの鷹」「皇帝」などと呼ばれた極めつけの名手で、ブラジル代表監督も経験していた。

「でもスター気取りするところはなく、自分が選んだ選手たちの能力を信じ切っていました。分からなければなんでも聞いてくれと、僕があまりに繰り返したから『それはマリーニョが自分で言っているんじゃないの』とからかわれたほどです」(マリーニョ)

 ファルカンは斬新な人選でチーム作りを進め、長期スパンでの強化を考えていたようだが、就任から約1年目に広島で開催されたアジア大会で「韓国を破ってベスト4以上」のノルマをクリアできずに退任する。解任にはファルカン自身も驚いていたというから、そういう意味ではJFA(日本サッカー協会)とのコミュニケーションが十分でなかったようだ。結局ファルカンを更迭すると、JFAは同じ言葉を共有できる加茂周を後任に据えている。

 しかし当時の主将だった柱谷哲二は、「コミュニケーションが取り難いから外国人監督がダメとは言っていない」と述懐している。今回ハリルホジッチの解任劇も「コミュニケーションが薄れた」(JFA田嶋幸三会長)のは、言葉の障壁というよりは、主張が一方通行になりがちな指揮官自身の性格に起因したはずである。


引用元:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1524145162

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