1: YG防衛軍 ★@\(^o^)/ 2015/12/15(火) 20:31:04.92 ID:CAP_USER*.net
 初めて味わう挫折だった。どうしたら厳しい状況から抜けだせるのか、何をすべきなのか、もがき続けた2年間だった。
2001年10月、イングランド2部リーグ、ポーツマスへ完全移籍した。念願の海外クラブ。
入団会見では拙いながらも必死に覚えた英語でスピーチしたり、練習では積極的にチームメートに
話しかけたりして、一日でも早くチームに溶け込もうと尽力した。
 チーム合流から3試合目。公式戦デビューとなったシェフィールド・ウエンズデー戦は3-2で勝った。
その後も出場し続けたが無失点に抑えることができず、出場8試合目まで全試合で失点(計16点)した。
9試合目のストックポート戦で、ようやく2-0の勝利に貢献できたが、チームメートから全幅の信頼を
得ることはできなかった。
 今でこそ日本選手が欧州で活躍しているが、あの頃の日本サッカーは、まだ世界に認められていなかった。
W杯には1998年のフランス大会にしか出場していなかった。ヒデ(中田英寿、当時イタリア・パルマ)や
イナ(稲本潤一、同イングランド・アーセナル)らが頑張っていたけど、「日本でサッカーは行われているの?」
と見られていた。

 だから一生懸命に指示を出しても聞き入れてもらえなかった。例えばゴール前のFKの守り方。
僕は日本では自分の視界を確保するため、守備陣に左右どちらかのサイドにスペースを作ってもらっていた。
空いたエリアは責任を持って守るから、というスタンスだ。

 ポーツマスでもリックス監督や選手にその意向を伝えたが、理解してもらえなかった。
当時のイングランドはゴール前に密集しての肉弾戦が魅力。守り方一つでも文化の違いを感じ、もどかしかった。
それでいて、点を決められると僕に対して「どうして止められないんだ」という空気がチーム内に漂う。
相手のスーパーゴールでさえ、僕の責任のような感じになっていたのは辛かった。

 DF陣との連係が命綱になるGKというポジションを外国籍の選手が守る難しさは覚悟していた。
渡欧前、ある程度の言葉の壁はスキルでカバーできると思っていたが、1年目はカップ戦も含め
12試合で25失点。2年目は1試合の出場に終わった。

 GKとして海外に挑戦した初めての日本選手だったし、だれに相談していいのかも分からない。
これはパイオニアの宿命なんだと割り切っていたが、実際は苦しかったし、何度も悔やんだ。
ただ、この悔しさと向き合い、あきらめずにはい上がろうとしたメンタリティーは長い現役生活に役立っていると思う。

http://www.sanspo.com/soccer/news/20151210/jpn15121011000001-n2.html

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