1: 名無し@サカサカ10 2017/12/15(金) 23:03:24.29 _USER9

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サッカーのE‐1選手権(旧東アジア選手権)はあす16日に最終日を迎える。2連勝で首位の日本は、1勝1分けの韓国と対戦。
首位の日本は勝つか引き分ければ、前身大会を含めて2大会ぶり2度目の優勝が決まり、韓国は勝てば逆転で2大会連続4度目の優勝となる。そんな日韓の激闘史を振り返ってみた。

両国の激突で日本にとって忘れられないのが1967年のメキシコ五輪アジア地区予選だ。日本開催のセントラル方式で行われた大会には韓国、台湾、フィリピン、南ベトナム、レバノンの6カ国が参加。
1回戦総当たりのリーグで、五輪には1チームしか行けないレギュレーションだった。

日韓両国とも3戦全勝で迎えた直接対決は、前半で日本が宮本輝紀と杉山隆一のゴールで2-0とリードしたものの、後半に2点を返され同点に追いつかれる。
エースの釜本邦茂が決めて再び勝ち越したが、粘る韓国も追いつき3-3で試合はタイムアップを迎えようとしていた。

韓国はラストプレーで3点目を決めた金基福が30メートルのロングシュートを放つ。セービングしたGK横山謙三の手も届かず頭上を越えたシュートは、
クロスバーを直撃したものの、ゴールに吸い込まれることはなかった。

そして同勝ち点で迎えた最終戦、韓国の相手は日本が15-0で圧勝したフィリピン。大量点の欲しい韓国は「18点を取る」と公言したものの、これがフィリピンのプライドを傷つけた。
FWひとりを残して全員がペナルティーエリアを固め、韓国の猛攻を5点でしのいだ。この結果、日本は得失点差で韓国を上回り、メキシコ五輪でアジア初の銅メダルにつなげたのだった。

日韓両国が強化のために定期戦を開催したのは1972年のこと。ホーム&アウェーで1991年まで15回続いた大会は、日本の3勝2分け10敗で幕を閉じた。
この大会で忘れられないのが1974年に国立競技場で開催された第3回大会だ。吉村大志郎(ネルソン吉村から帰化)や森孝慈(いずれも故人)が精力的に動いて韓国を圧倒。
釜本や吉村のゴールなどで4-1の大勝を飾った。日本が韓国に勝ったのは1959年のローマ五輪予選以来15年ぶり(14試合目)の快挙だっ

今でこそ日韓は良きライバルとして切磋琢磨しているが、Jリーグ誕生以前は韓国が戦績で圧倒的にリードしていた。特に、アウェーは日本にとって鬼門だった。
そんな「負の歴史」にピリオドを打ったのが1982年にインド・ニューデリーで行われたアジア競技大会だ。

グループリーグ初戦で難敵イランを木村和司のゴールで1-0と下した日本は、第3戦で韓国と激突。先制点を許したものの、原博実(現Jリーグ副チェアマン)のゴールで同点に追いつく
風間八宏(現名古屋監督)のドリブル突破から岡田武史(元日本代表監督)のロングシュートで2-1の逆転勝利を収めた。

これが国外での韓国戦初勝利で、グループリーグで敗退した韓国の金正男監督は日本戦の敗北により更迭される。
しかし金監督は1985年のメキシコW杯予選決勝で森監督に雪辱を果たしており、両者の不思議な縁を感じる。

つづく

12/15(金) 16:00配信 AERA dot
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171215-00000025-sasahi-socc

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