666: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/09/05(火) 11:14:51.86 ID:hHz/tDw+0
あと岩政が良いこと言ってるわ。要約すると、
ポゼッションもカウンターも必要ということと、
「自分たちのサッカー」は「理念」であり「必要だ」ということ

今回カウンターでオーストラリアを沈めたことで声高に「カウンターだけが良いんだ」
「自分たちのサッカーはダメだ」というクソみたいなものの分からない人間は岩政の発言をしっかり読むと良いよ

⇒W杯出場決定でかわされる戦い方の話。「自分たちのサッカー」の是非論に感じる疑問(BestTimes)
…(抜粋)…

no title■「日本が素晴らしかった」の裏にあるもの

 オーストラリアに見事な試合運びで勝利した日本。確かに素晴らしい内容と結果でした。ただ、試合とは全て、相手との相関によって進んでいきます。「日本が素晴らしかった」には「オーストラリアが良くなかった」ことが大きく作用しているので、あの試合はあの試合で置いておいて、その先を見ていかなくてはいけません。

 それを選手たちは当然のことと捉えていると思いますが、周囲はどうでしょうか。ここ数日の風潮に耳をすますと、『やっぱり、「自分たちのサッカー」は間違いなんだ』とか、逆に「相手に合わせて戦い方を変えていて世界で勝てるのか」とか、『「自分たちのサッカー」を持つべきか否か』を「Yes」か「No」かで語ろうとするものばかりを目にします。
 サッカーは語り合うことでしか見えてこないものある。だから、こうした議論が起こることはサッカーの未来を作ってくれると思いますが、同時に、「自分たちのサッカー」の捉え方に疑問を感じざるを得ません。


 僕はそのプレゼンの中で、「自分たちのサッカー」という言葉に振り回される危険性について指摘をさせていただきました。言葉というものは思いの外、力をもっていて「自分たちのサッカー」「自分たちのサッカー」と口にしていると、いつの間にかそれをある一つの戦い方に限定しまい、チームの可能性を狭めてしまう、と。
 本来、「自分たちのサッカー」とは選手たちにとっても漠然としています。”やり方”から捉えると何をもって「自分たちのサッカー」とするかは同じチームの選手でもバラツキがあるものなのに、シーズンが進むにつれて何か拠り所がほしい選手たちはだんだん「チームとしての正解」を決めたがり、それを決めることによってその「チームとしての正解」に向かってプレーしようとしてしまうのです。

「自分たちのサッカー」その定義とは

 しかし、残念なことに、サッカーとは永遠に正解のない″問い”です。もしかしたらそれは人生と同じですが、”自分なり”を極めていくしかないのです。

 つまり、それはバランスの問題である、ということです。「自分たちのサッカー」に100パーセント傾いていては勝てるわけがなく、相手に100パーセント合わせていても然りなのです。


「自分たちのサッカー」とは僕たちにとって、あるいは鹿島アントラーズにとって、いつも「献身・誠実・尊重」を体現できた空気感なのです。やり方はそのときの選手、そのときの試合で変わってきますが、サッカーをやったものには一度は味わったことがあるであろう、”チームが一つになる”空気感こそが「自分たちのサッカー」なのです。

 そこに至るためには、自分たちが一番心地いい戦い方で向かうのが手っ取り早いです。しかし、サッカーとはそんなに簡単なスポーツではありません。そのときに、心地よく試合を進められなくても自分たちのリズムに持ちこむことができる。それを構築できれば、それさえも「自分たちのサッカー」である、ということなのです。

 大事なことは、主体的であるか、受動的であるか。

 つまるところ、戦術もシステムも、はたまたやり方も戦い方も、全ては主体的に選手たちが戦うためのものであるのだと思います。


「自分たちのサッカー」が一つの戦い方である必要があるとは、これまで誰も言っていません。いや、はじめは誰しもそう思っていたはずなのです。しかし、言葉の力によって、僕たちは「自分たちのサッカー」を貫くか否か、の二元論で話すようになり、結局、正解を見つけられず彷徨っています。
 「議論」とはそういうものなのかもしれませんが、サッカーとは判断のスポーツ。全てはバランスの上に成り立ち、選手とは正解のない問いに、”自分なりの答え”を判断し続けていくしかない。僕たちは、そんなことをサッカーを通じて学ぶのです。


引用元: ハリルホジッチジャパンpart801

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