1: 2017/01/26(木) 16:06:10.81 ID:CAP_USER9
 1月中旬、寒波が襲った東京(うち1日は埼玉)で、なでしこジャパンの2017年度最初の合宿が行われた。高倉麻子監督が招集した28名の中に、猶本光(浦和レッズレディース)の名前もあった。

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 2004年のアテネオリンピックのアジア予選で、3万人を越える大観衆を国立競技場に集め、その眼前で北朝鮮を3-0で破った日本女子代表。公募で「なでしこジャパン」という愛称がつけられた彼女らは、ギリシャで行われた五輪本大会でもベスト8に進んだ。日本サッカー協会(以下JFA)は、沸き上がった「なでしこブーム」を一過性のものにしないため、男子同様、女子選手の育成にも力を入れ始めた。各地域の指導者から推薦された金の卵が一堂に集められる、ナショナルトレセン女子U-15もそのひとつだ。2007、2008年のナショナルトレセン女子U-15に参加した猶本は、ここで、その才能を発掘された。

 「アルキメデスの原理」のヒントを風呂場で得たアルキメデスは、歓喜のあまり「ヘウレーカ!(見つけた!)」と叫びながら、裸で街を駆け回ったと伝えられる。ナショナルトレセンを視察したJFAの強化担当者も、紀元前の天才学者もかくやという勢いで「見つけたよ!」と、私の肩を叩いてきた。「九州の子」という第一ヒントで、すぐに猶本の名前が頭に浮かんだ。その年の夏、クラブの練習取材で福岡J・アンクラスを訪れた際に、河島美絵監督(当時)からその存在を教えられていたからである。

 JFAと周囲の期待に応え、猶本は順調に成長していった。なでしこジャパンは、若い頃から、上の年代や男子と対戦してきた選手がほとんどだ。体力面では絶対叶わない相手と戦うことで強い負荷をかけられ、これを乗り越えるために工夫し続ける。猶本も、通っていた福岡女学院で、中学時代は高校生と競い、やがて同校と関係の深い福岡J・アンクラス(現・チャレンジリーグWEST、猶本在籍時には、なでしこリーグ1部に所属)でトップチームへ昇格。大人に交じってトレーニング、試合をこなしながら“自分よりも大きく速い相手”への対処法を身につけていった。

 その真価は、世界を相手にも発揮される。まず、2010年、トリニダード・トバゴで行われたFIFA U-17女子W杯で全試合に出場。決勝では韓国にPK戦で敗れたものの、銀メダルを獲得した。日本の女子代表全カテゴリーで、FIFA主催トーナメントの決勝に進出したのは、これが初めての快挙だった。

2011年、今度はなでしこジャパンがFIFA 女子W杯ドイツ大会で優勝した。チームでのトレーニングもあって、日本時間の深夜におこなわれた試合をリアルタイムで見ることはほとんどできなかった猶本だが、メディア、そして世間の盛り上がりを見ながら、「すごい!」と感動した。しかし、それは一瞬だった。

「はじめは『すごい!』と思いましたが、すぐ、その場にプレーヤーとして立ち会えなかったことが悔しくなりました。私くらいの年齢(当時17歳)の選手がフル代表でプレーするのは、世界では当たり前のことですから」

 翌2012年、首都圏への大学進学を機に、なでしこリーグ屈指の強豪チーム、浦和レッズレディースへ移籍。より高いレベルの環境に身を投じて「その場」を目指す。ロンドン五輪が終わった直後、日本でFIFA U-20女子W杯が開催された。猶本は「ヤングなでしこ」と名付けられた20歳以下の日本女子代表チームの主力として参戦。地元開催のプレッシャーに負けず、超攻撃的サッカーのタクトをふるい、銅メダル獲得に貢献した。

 このU-20女子W杯での活躍と、端正なルックスの相乗効果で、この辺りから猶本人気が沸騰。ポジションが同じボランチという連想から「澤穂希の後継者」と称されるようになった。しかし、平坦な高速道路はここまで。ここから先は、山あり谷ありだった。

 2013年はケガに見舞われ、浦和での公式戦出場は僅か7試合に留まった。左腕にキャプテンマークを巻いて臨んだ、秋の国際大会、AFC U-19女子選手権でも、まさかの4位に沈んでしまう。自身2度目の出場を目指したU-20女子W杯の出場権を逃し「強い責任感の持ち主だからショックは大きく、代表から戻ってきても完全に自信を失っていた。だから、しばらく休ませたほうがいいと思って、ウチでも無理に使わなかった」(吉田靖・浦和レッズレディース前監督)。

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