1: YG防衛軍 ★@\(^o^)/ 2015/10/23(金) 20:37:35.03 ID:???*.net

endo zac2013-11

 
「ボランチ」 の輸入以前には柱谷が守備的MFとして活躍。

 日本代表のなかで、いまだレギュラーが定まっていないポジションのひとつが「ボランチ」だろう。
10月のシリア戦、イラン戦では山口蛍、柴崎岳のふたりが長谷部誠とともに起用されたが、
両者とも絶対的な地位を確立するまでには至っていない。

【写真】日本代表ボランチの系譜~オフトJAPANからハリルJAPANまで

 ボランチに求められる役割は、時代の流れとともに変わってきたが、日本代表の中盤を彩った様々な
タイプを引き合いに出しながら、現代サッカーで必要とされるボランチ像についてスポーツライターの加部究氏が論じる。

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 ボランチという言葉の使用頻度が急速に高まったのは、Jリーグ開幕前後だったと記憶している。
ハンドルを意味するポルトガル語だが、選手だけではなく指導者も含めてブラジルからの輸入が俄然活発化し、
人気を牽引するのがV川崎(現・東京V) 、鹿島、清水などブラジル色の濃いクラブだったことも影響したに違いない。

 当初は必ず 「守備的MF」という注釈が付いたが、20世紀末にはひとり歩きするようになり、
やがて外来の専門用語としては群を抜く浸透ぶりを見せた。

 しかし用語そのものの浸透ぶりとは裏腹に、理想のボランチを発掘するのは難しい状況にある。
ハンドルの意味合いを中盤の底での舵取り役と解釈すれば、確かにパスを散らし攻撃の起点となれるタイプは目に付く。
 だが一方で国際基準に照らすと、ボランチには守備での鎮火作業が不可欠だ。
攻撃的なスタイルを標榜するなら、洩れなく求められるのがボール奪取力で、
ここで相手の攻撃を堰き止められなければ高いポゼッションも成り立たない。
 つまり、現代のボランチには「繊細さと強靭さ」 「テクニックとパワー」と相反する要素が求められるわけで、
だからこそ高性能なハンドル製造への道は険しい。

 ところでボランチという言葉の輸入以前に、まず守備的MFに焦点を引き寄せたのが柱谷哲二だった。
国士舘大を卒業し日産自動車(横浜の前身)に入社するが、当時のチームは攻撃的なタレントが目白押し。
そこで加茂周監督に勧められ、守備力を磨いて新境地を切り拓いた。

 木村和司、金田喜稔、水沼貴史らを揃え、圧倒的な攻撃力を示したチームのなかで、
逆に最終ラインの前の防波堤として機能し、この役割の選手としては初めて年間最優秀選手に選ばれている。


ボランチとして最も国際基準に肉薄したのは稲本潤一。

 さらにドーハの悲劇(93年アメリカ・ワールドカップ最終予選)で散ったハンス・オフト時代の日本代表では、
森保一が大黒柱のラモス瑠偉を影のように支える献身ぶりで評価を高めた。身体を張ってボールを拾い、
ラモスに預ける地道な仕事ぶりからは、現在の毅然たる陣頭指揮を想像するのは難しかった。

 そして98年には、初出場のフランス・ワールドカップを山口素弘、名波浩のコンビで戦うわけだが、
どちらも本来の資質は攻撃に傾いていた。

 山口は97年同アジア予選、国立での対韓国戦のゴールセンスがそれを物語っているし、
一貫してトップ下に君臨してきた名波は言うまでもない。天性の創造性を持つ名波は、
磐田入団後にオフト監督の指示で守備を鍛えられ、ボランチとしてヴェネツィアに渡るのだが、
イタリアでは再度トップ下へと戻されている。

 概して攻撃的資質が先に開花するので「守備はプロに入ってからでも間に合う」というのが名波の見解だが、
一方で「もしオレに服部年宏の守備力があったら、少なくとも3年間は欧州でやれた」とも述懐している。

 その点で歴史的にもボランチとして最も国際基準に肉薄したのが、稲本潤一だろう。コンタクトに強い
身体的な資質に加え、技術も高く視野も広かった。相手を潰すだけではなく攻撃力も出色で、
02年日韓ワールドカップではボランチながら2ゴールを記録。フルハム時代にはトップ下としてプレーし、
インタートトカップのボローニャ戦ではハットトリックを達成した。

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